人的資本は誰のもの? 元ソニー望月氏が語る「選び選ばれる関係」
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人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで企業価値の向上を目指す人的資本経営。会社と社員が「互いに選び選ばれる関係」を構築し、組織全体の持続的成長を実現するには、どのようなアプローチが求められるのでしょうか。
今回は「社員の力を引き出す人的資本経営を目指して」をテーマに、ソニーグループ株式会社(※)の望月氏にお話を伺います。ビロンギングの重要性、表層と深層のダイバーシティ、HRソリューションの発展まで——現場で人事領域をリードしてきた望月氏が語る、人と組織の新たな関係性構築に向けた視点に迫ります。
※記載の肩書き・所属は本イベントを開催(2025年3月)時点の情報です。
※SmartHRでは経営層のみなさまを対象に、ゲストスピーカーを招いたオフライン交流会を定期的に開催しています。本記事は「『人』で繋がる交流会 Executive Premier Talks 人的資本経営フォーラム2025 人事×情報システム ~部門同士の連携が生み出す最強の組織力~」の内容をもとに制作しています。

ソニーグループ株式会社 安部専務室 組織開発アドバイザー(※)
ソニー株式会社入社後、事業所、合弁会社での人事総務に加えて長らくHRBP業務に従事したのち、2016年4月ソニー人事センター長に就任。2020年7月より2022年3月までソニーピープルソリューションズ株式会社 代表取締役社長を務めながら、グローバルHRプラットフォーム部門長、DE&I推進部長を兼任し、HR領域でのITソリューション活用推進(HR DX)に取組み、ソニーグループのDE&I推進活動もリードしてきた。現在はソニーグループ株式会社 安部専務室付組織開発アドバイザーとして組織開発、人事渉外関連を担当する。
※記載の肩書き・所属は本イベントを開催(2025年3月)時点の情報です。
人的資本経営の本質は「選び選ばれる関係」にある
はじめに、人的資本経営を考えるうえで私が大切だと考える視点を共有します。人的資本経営のバイブルとして広く認知されている『人材版伊藤レポート2.0』における伊藤邦雄先生の言葉です。
個人も主体的に、そして自律的に変わり、会社も社員一人ひとりと丁寧に向き合い、多様性を大事にし、更に高めるための支援や施策を推し進めていただきたい。そうしてこそ個人と組織が互いに選び選ばれる関係が構築できる。
人的資本経営において鍵となるのは「個人と組織が互いに選び選ばれる関係」です。選び選ばれる関係をどうすれば築いていけるかを考える必要があります。
まずは、そもそも人的資本とは誰がもっているのかからお話したいと思います。
経済学や社会学における人的資本に対する一般的な見解では、人的資本は個人がもつものと理解します。決して会社のものではないのです。
たとえば一橋ビジネススクール教授の小野浩氏は『人的資本の論理』において、人的資本は社員個人が有しており、投資によって生まれた新たな人的資本もまた社員に蓄積すると説明しています。
また、中央大学大学院教授の島貫智行氏も『「人的資本経営」と人的資源管理 「人材版伊藤レポート」からの示唆』において「人的資本への投資は従業員個人の視点に立つこと」であり、「従業員個人の主体的な学習やキャリアオーナーシップにもとづく意思決定」の促進、支援が重要と述べています。
つまり、人的資本経営は会社だけが努力して実現できるものではない。社員の「人的資本をどう蓄積し、仕事を通して成長するか」という主体的・自律的な意識や「キャリアを自分でつくる」というオーナーシップが欠かせないのです。
会社への投資の“見返り”は、学習と成長機会の提供
では「選び選ばれる関係」において、社員は何を選んでいるのでしょうか。
ソニーグループで2023年に実施したエンゲージメントサーベイによると、「学習や成長の機会に恵まれている」と回答した社員のエンゲージメントスコアは「まったくそう思わない」と答えた社員よりも大幅に高くなっている現状がわかりました。社員への学習と成長の機会提供が、エンゲージメント向上につながっていると考えられます。
社員がキャリアオーナーシップをもち、会社はその人たちに成長と学習の機会を提供し、人的資本の蓄積を促進する。それらを組織の力として集約して事業活動につなげていく。これが会社が取り組むべきことです。
こうした人的資本経営における、会社と社員の資本の関係は貸借対照表でも表せます。以下の図において、会社の資産側には「組織資産」と「人的資産」があり、資本・負債側には「他人資本」と「自己資本」があります。

社員が入社する行為は自分の「人的資本」を、会社に投資する行動といえます。そのリターンとして社員は仕事を通じて学習や成長の機会を得ます。
会社は社員から投資された「人的資本」を人材公募制度や両立支援などの施策を通じて育み、会社の経営戦略や事業目的に照らし合わせながら「組織資産」にします。
このギャップを埋める成長プロセスによって社員の「人的資本」は増加し、その価値は個人にも還元されていくのです。
エンゲージメントが決める「自己資本」と「他人資本」の比率
ここで重要なのは、社員のエンゲージメントによって右側の自己資本と他人資本の比率が変わってしまうことです。
社員が組織の一員になったあと、会社は投資した人的資本に対する期待収益、つまりリターンを社員に示す必要があります。それに応えて社員が「この仕事に取り組みたい」という意欲やキャリアオーナーシップ、自律性を高めていきます。これがエンゲージメントの高い状態と言えるでしょう。
逆に、社員のエンゲージメントが低いときはどういう状況と考えればよいでしょうか。社員と会社の関係が単に労働と報酬を交換するだけのものになっている。このような状態では、社員が投じた人的資本は「自己資本」ではなく「他人資本(借入金)」のように扱われることになります。
社員は「この会社で働けば自分の価値が高まる」と確実に見込まれるときにこそ、持続的に自分の人的資本を会社に投じる意欲を保ちます。こうしたエンゲージメントの概念を加えたのが以下の図です。

「この会社に所属している」というビロンギングの感覚
エンゲージメントと関連する概念にビロンギングがあります。これは「自分はこの会社を選んでいる」「自分はこの会社に所属したい」という個人的な感情・感覚です。
ビロンギングが働くからこそ、社員が自分の人的資本を自己資本として組織に投下し、そこで活躍の機会を得ることによって成長するという関係が実現します。

逆に社員のビロンギングが途切れるとどうなるか。「この会社にいる意味がない」と思い始めると、社員は自分の自己資本を他の組織に活かしたいと考え、エンゲージメントや自己資本も減少し、最終的には離職や転職にいたります。ですから、このビロンギングの感覚を維持する取り組みが大切だと、私は強く感じています。
では、ビロンギングを保つにはどうすればいいのでしょうか。重要な要素の一つは企業理念やパーパスへの共感だと考えます。それらの根底にあるのは企業文化です。企業文化とは、組織内で言語化の有無にかかわらずメンバーが共有している価値観や行動規範を指します。
採用時には企業理念やパーパスを社員にしっかり伝えていても、入社後はコミュニケーションの量が落ちてしまう会社も多いかと思います。入社したら社員は自然に自己資本のままでいてくれると考えがちですが、これからの時代はそうとは限りません。
ビロンギングを高く維持するためには、入社後も企業文化に関する対話や、理念、パーパスといった会社全体の方向性に関する重要な情報をしっかりと伝え、企業文化を定着させることが極めて重要です。
エンゲージメント向上に必要な「深層のダイバーシティ」の視点
ビロンギングやエンゲージメントを深く理解し、社員が会社に自己資本を投資する動機を探るには、2つの異なるタイプのダイバーシティを考慮する必要があります。
- 表層のダイバーシティ(デモグラフィックダイバーシティ):国籍や性別、年齢など、外見からわかる属性的なダイバーシティ
- 深層のダイバーシティ(コグニティブダイバーシティ):価値観や仕事に取り組むときの姿勢、思考のタイプといった、外見からはわからない意識・認知レベルのダイバーシティ
社員一人ひとりが求める学習や成長の機会、あるいは働きがいを感じるポイントは、深層のダイバーシティも捉えなければ把握できません。
ただ、これまで会社が把握している人事データでは、仕事に取り組む姿勢や価値観といった、深層のダイバーシティを捉えるのは容易ではありません。多くの人事データは、年齢や職歴、保有資格などの表層のダイバーシティに紐づくデータだからです。
こうした「人事データ」はSoR(System of Record:記録のためのシステム)思考にもとづくもので、主にデータ処理の効率化を目的としています。もちろん労働法に則った労働時間管理、健康管理や安全対策といった人事管理業務では、当然こうした「人事データ」が不可欠です。

一方で、社員のエンゲージメントやビロンギングに働きかけるには深層のダイバーシティも捉える「人材データ:関係構築のためのシステム)」も積極的に取得、分析していくことが必要です。
会社と社員の情報の非対称性を解消。HRソリューションの発展段階
こうしたデータについての課題意識を踏まえ、私はHRソリューションの発展段階を以下のように整理して捉えています。
- HR Solution 1.0:人事業務の効率化やデータ整備を可能にするソリューション
- HR Solution 1.5:経営情報としての人材データを可視化できるソリューション
- HR Solution 2.0:社員とエンゲージするために、モチベーションの把握や学習と成長の機会提供を支援するソリューション
- HR Solution 3.0:人的資本の所有者である「個」を支援、社員を含むすべてのユーザーに行動・意思決定に資するインサイトを提供するソリューション

現在の人的情報開示は1.5〜2.0の段階に到達していると考えますが、個人のオーナーシップを支援するソリューションには必ずしも十分ではないという認識です。
今後は2.0から3.0の移行、つまり情報を社員にも開示し、自律的な行動を促す仕組みが求められます。どこまでデータを見せるべきか、データだけでなく動機につながるストーリーをどのように伝えるかなど考慮すべき点が多々あり、人事にとって大きな挑戦になると思います。
この段階で重要なのは「成長と貢献の機会を、いかに社員に見える化するか」だと思います。社員に自律的・主体的な行動を促すには、会社と社員間の情報の非対称性の解消が必要です。最近、タレントマーケットプレイスやオポチュニティマーケットプレイスと呼ばれるHRソリューションが登場しています。社員が自分自身の情報を登録し、自ら行動計画を立てられる仕掛けを提供するもので、まさにHR Solution 3.0にあてはまります。
たとえば、とある会社ではメンタリング制度においてメンターの情報をウェブサイトで公開、社員が自らメンターを選んで依頼できるようにしています。「この人にメンタリングしてもらいたい」と社員自身がアクションを起こせる環境を整えているそうです。
こうした取り組みによって社員の自律的な学習と成長の支援が実現することで、挑戦し、学び続ける企業文化が生まれてくるのだと思います。
「ラーニング・アジリティ」を高め、俊敏に学び、行動する
一人ひとりが学ぶ力がますます重要になっている今、組織開発や人材開発においては「ラーニング・アジリティ」という概念にも注目が集まっています。これは新しい環境や経験からすばやく学び、問題を解決していく能力です。ラーニング・アジリティは、一部の社員だけが備えていても意味がありません。それが企業文化として根付いてこそ、社員の成長と組織の成長がうまくかみ合って回っていくのです。
「マネジメントの父」と呼ばれる経営学者・ピーター・ドラッカーは「企業文化は戦略に勝る」と指摘しています。企業文化こそ、他社と自社の違いを社員が認識することになる最大の経営資産です。ソニーグループでも企業文化の継承と発展を重要なイシューだと捉えて取り組みを続けてきました。学びによる社員の成長と、それを育てて支える企業文化の維持。両立させてこそ、組織の持続的成長が可能になります。
組織の成長は、多様な個の成長に支えられています。社員一人ひとりがキャリアオーナーシップのもとで自分の人的資本を着実に伸ばしてこそ、人的資本経営を実現できるのです。