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「紙の本」をよりアクセシブルに。これからの企業や出版業界に求められていること

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2019年に施行された読書バリアフリー法は、障害の有無に関わらず、すべての人々が等しく読書ができる社会の実現を目指して制定された法律です。視覚障害・上肢障害などの身体障害やディスレクシアなどの発達障害がある人にとって、紙の本にアクセスすることは困難を伴うため、電子書籍やオーディオブックといった選択肢を複数に増やしていくことが求められています。小学館は2021年に「アクセシブル・ブックス推進室」を立ち上げ、本のアクセシビリティ向上に出版業界のなかでも先駆けて取り組んできました。そうした活動について、アクセシブル・ブックス推進室で室長を務める木村匡志さんに伺います。

木村匡志(きむら・ただし)

小学館マーケティング局アクセシブル・ブックス推進室室長

アクセシブル・ブックス推進室は2021年に設置されたとのことですが、小学館が社をあげてアクセシビリティに注力したきっかけを教えてください。

木村

出版業界にとってという意味では、2019年に施行された「読書バリアフリー法」が転換点でした。ただ、バリアフリーやアクセシビリティという言葉が社会に浸透する以前から、小学館は点字の出版物をはじめ、障害のある方に向けた本を制作していたんですね。小学館はもともと子供の読者に本を届けたいという思いからつくられた会社ですから、「より幅広い層に本を楽しんでいただくためには、従来の形態だけでは足りていないはずだ」という意識が社内にあったのではないかと思います。もともとそのような土壌があったところに読書バリアフリー法が施行されたことがきっかけとなって、アクセシブル対応の窓口となる部署が必要なのではないかという考えに至り、アクセシブル・ブックス推進室が立ち上がりました。

現在は、紙の書籍以外ですと主にどのような形態の出版物を刊行されているのでしょうか。

木村

しかけ絵本のように紙以外のフォーマットに向かないものを除けば、ほとんどの刊行物で電子書籍版が刊行されています。オーディオブックは今年ようやく1000タイトルを超えたところですが、会社全体の刊行点数から見るとまだごくわずかですので、さらに増やしていきたいと思っています。また、本の購入者にテキストデータを提供することにも取り組んでいまして、QRコードを用いて申し込んでいただける仕組みを社内でつくったので、これから事例をより増やしていきたいと考えています。

お話をする木村さんの様子

貴社が2022年に出版した『だれも私たちに「失格の烙印」を押すことはできない』(著・キム・ウォニョン、訳・五十嵐真希)は、異例の7形態での刊行で話題になりました。この形態については、社内でどのように検討されたのでしょうか?

木村

その本に限らずですが、紙以外の形態を用意する際には、障害当事者の方に意見を聞きながら進めていくのがいちばん丁寧な方法だと考えています。しかし出版社は、読者の声を直接聞ける機会が少ないという問題もあるんですね。そこで今回は、障害支援をされている方の勉強会に参加したり、日本点字図書館に足を運んでニーズを把握するように努めたり、全盲の方や弱視の方、上肢障害のある方などが普段どうやって本を読んでいるのかをヒアリングする機会を設けたり、といったことをしました。

『だれも私たちに「失格の烙印」を押すことはできない』のページをめくる木村さんの手元

木村

そのうえで選択肢をできるかぎり増やし、自分にもっとも合う形態を読者に選んでいただけるようにしています。たとえばリフロー型の電子書籍であれば、行をハイライトしたり、文字を大きくしたりできます。そういった形態にするだけでも本が読みやすくなる方のことを考えると、これはあったほうがいい。また、発達障害や視覚障害のある方は文字列を追うこと自体が難しいケースもあるので、耳で聞けるオーディオブックも必要です。

加えて、音声合成による自動読み上げを用いたい方、点字で読みたい方もいるはずですから、テキストデータ版や点字版も用意したい……と考えた結果が、今回の7形態になります。複数の選択肢を同時に用意するのは、率直に言えば非常に大変な作業でした。一方で、出版界が乗り越えていくべき課題だったのではないかとも感じています。

紙の本をよりアクセシブルにしたいと考えたとき、企業はどこから取り組むべきか

アクセシビリティを高めるために複数の形態を用意することは重要である一方、木村さんがおっしゃったように多大な労力が必要とされる側面もあります。紙をベースにした刊行物を出版している企業や団体が、紙以外の形態を用意する場合、どのような選択肢をつくることから取りかかるのがよいと思いますか。

木村

いろいろなやり方があるとは思いますが、まずはなるべくニーズの多い形態から用意し、広い読者に届けることを考えるのがいいのではないでしょうか。たとえば紙の刊行物の電子書籍化は、読者からのニーズもあると思いますし、基本的にはデータの変換のみで対応できるケースが多いはずなので、優先して取りかかっていいかもしれません。

お話をする木村さんの様子

木村

音声で聞きたいユーザーの声に応えるためには、オーディオブック版やテキストデータ版を用意することが望ましいですが、オーディオブックは録音・編集に膨大な時間がかかることもあり、多くのタイトルを一度に用意するのは現実的にはなかなか難しい。その点、テキストデータの提供は、著作権者の許諾などは必要になりますが、オーディオブックに比べると比較的簡単に行えるのではないかと思います。テキストデータの提供に関しては、データの不正利用を懸念する声が挙がるかもしれません。しかし多くの出版社では、書籍のページの一部を切り取って返送してもらう形で購入確認を行なったり、購入者の方に同意書を書いていただいたりする方法を取っていますので、現時点ではそこまで不安視しなくてもいいのかなと思います。

オーディオブック化には膨大な時間がかかるとのことでしたが、小学館の場合、どのような刊行物を優先して制作しているのでしょうか?

木村

小説やノンフィクションといった文字中心のジャンルから、人気や内容を鑑みてセレクトしています。ただ、売れ筋の本や新しい本ばかりを選ぶとラインナップに偏りが生まれてしまうので、昭和の文学など少し古めの作品も意図的に選び、利用者がなるべく幅広い作品にアクセスいただけるように意識しています。

実際にリスナーの意見を聞いてみると、オーディオブックを通じてある作家の作品を好きになったのに、過去の作品はまったくオーディオブック化されていなかったとか、シリーズものの作品が途中までしか出ていないので困るといった声がしばしば上がるんですね。そういった問題を解消するためにも、ラインナップの厚みには力を入れていきたいと思って取り組んでいます。

アクセシブルな書籍を必要としているユーザーに情報が届ききっていない、という課題を解消するために

小学館が進めている取り組みは出版業界の先駆けとなるものですが、社内ではアクセシビリティ向上についてどのように受け止められているのでしょうか。

木村

これで「うちの社員は全員アクセシビリティのエキスパートです」と言えたらいいのですが、残念ながらそういったレベルには達していないと思います。読書バリアフリーやアクセシビリティ向上に関しては、社内でセミナーを開いたり、個別の相談に乗ったりしているのですが、まだまだ認知が十分とはいえない状況なので、社内啓発もアクセシブル・ブックス推進室のミッションのひとつだと捉え、地道に説明を続けていきたいですね。

お話をする木村さんの様子

今年7月には障害当事者でもある作家の市川沙央さんが『ハンチバック』で芥川賞を受賞し、読書バリアフリーについて語られた受賞会見時のコメントも話題になりました。読者や障害当事者の方からの反響などはありましたか?

木村

市川さんの芥川賞受賞の影響は非常に大きかったです。社会が今後、読書バリアフリーやアクセシビリティについて考えていくうえで大きなきっかけになったと思います。私たちがテキストデータの提供やオーディオブック版、点字版といった形態の刊行物を出しているとどれほど謳おうと、それを本当に必要としている方のところまではまだ情報が届ききっていないんだということは、市川さんのご発言からも考えさせられました。やはり本1冊の事例ではダメなんですよね。たとえば「小学館の刊行物の◯%はテキストデータに対応しています」といった事例をもっともっと増やし、情報がそれを必要としている方々に十分に届くようにしていかなければいけないと考えています。

お話をする木村さんの様子

木村

現状の出版業界の大きな課題は、1冊の本にどのような形態があるのかという情報がきちんと整理・集約されていないことです。ある本を読みたいと思ったときに、その本に電子版やオーディオブック版があるのか、さらには文庫版や異装版があるのかといった情報が一覧で見られる出版社や書店のWebサイトはこれまで存在しませんでした。それを解消しようと一般社団法人日本出版インフラセンター(JPO)が出版業界に呼びかけ、『出版書誌データベース』、通称『Books』というサイトが稼働しはじめたところです。サイト自体もアクセシブルなものになっています。

これまでは書籍にアクセスすることを諦めざるをえなかったユーザーのためにも、そういった企業や業界の取り組みがより広く知られていってほしいですね。

木村

本に触れたい気持ちを持っている方が、自分がアクセスできる手段がないという理由から本を楽しむことを諦めてしまうのは本当に残念なことです。それは私たち出版社の努力で防げることですから、今後も刊行物の形態やラインナップを広げつつ頑張っていきたいと思います。

白い壁に軽くもたれ、腕組みをする木村さん

取材・文:生湯葉シホ
撮影:小池大介

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