負債25億からV字回復。オーダースーツSADAが貫く「利他の経営」とは
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“中小企業が目指す 攻めの人材戦略” をテーマに開催されたカンファレンス「SmartHR Agenda #5」。さまざまなゲストをお招きし、「人材戦略」「採用」「評価」「定着」「育成」「組織づくり」についてのセッションを開催しました。
株式会社オーダースーツSADA 代表取締役社長 佐田 展隆さんが登壇された講演では、同社が倒産危機から企業再生を成し遂げられた過程についてご紹介されました。「利他の心にも通ずる」とも語られた、危機を乗り越えるために必要な思考法について学びます。
株式会社オーダースーツSADA 代表取締役社長
一橋大学経済学部卒。高校までサッカー部、大学時代はノルディック複合選手という体育会系。大学卒業後、東レ株式会社でテキスタイル営業。2003年、父に乞われ、株式会社佐田入社。2005年、代表取締役社長就任。バブル時代の大手取引先そごう倒産の傷跡が深く、破綻寸前の企業を黒字化するも、莫大な有利子負債は如何ともしがたく、2007年、金融機関の債権放棄と共に、会社を再生ファンドに譲渡。2008年、引継ぎを終え株式会社佐田を退社。しかしリーマンショックで再生ファンドが解散となり、会社の所有権は転々とする。そして東日本大震災で国内の仙台工場が被災し、会社の引き受け手が居なくなり、2011年7月に会社の再々生のため株式会社佐田に呼び戻される。2012年代表取締役社長復帰し、オーダースーツの工場直販事業強化を柱に企業改革を進め、3期連続増収増益を達成し会社業績を安定化。以後も売上の拡大を継続。現在では自社をオーダースーツチェーン店舗数日本一に成長させる。自社オーダースーツPRの為、自社スーツを纏い、スキージャンプを飛ぶ、富士山頂から山スキーを滑る、東京マラソンを走る等のチャレンジを行ない、動画をYouTubeにアップしている。
テレビ、YouTube、出版…メディア露出が変える従業員心理
オーダースーツSADAは東京の神田に本社を置き、「お試し1万9,800円から本格フルオーダースーツ」を掲げてフルオーダースーツを販売しています。 このキャッチコピーは17年前に1号店を出したときから変わりませんが、当時はネット上で「嘘をつくな」の大合唱でした。
フルオーダーじゃないんだろうとか、劣悪な素材で着たら破けるに違いないなどと言われる始末です。それを見た従業員たちは、自社製品に誇りを持てなくなっていました。私がいくら「お客さまを大切に」と話しても、自社製品への自信を失いかけている状態では、本気のおもてなしなんかできるはずがありません。なんとかして、自社製品への自信を持ってもらわなければと思いました。
そのために一番がんばったのが、メディアへの露出です。メディアに出れば社会的な信用がついてきて、 従業員も誇りを持ってくれるはずだ。そう考えて、私はメディアにひたすら働きかけました。
私は質と量の両方がなければ成果は上がらないと思っています。しかし、短期的に見るとこれらはトレードオフの関係に見えます。あちらを立てればこちらが立たず、というやつですね。では、どちらを取るべきなのか。私は圧倒的に「量」だと思います。
先に質を追い求めると、量があとからついてくることはないんですね。一方で、まず量を確保すれば、あとはPDCAサイクルを回すだけで質がついてきます。気がつけば、その人は質と量を兼ね備えた仕事をしているというわけです。だから私は、メディア露出に関してもとにかく動くことにしました。プレスリリースを月に1本打つ。100社ほどのリストを作る。封書やメール、ファックスを送り、電話をかけてみる。それを3年続けたあたりから、地方紙から取材依頼をいただくなど成果が出はじめたんです。石の上にも3年とはよく言ったものです。
そこから全国紙やテレビからも取材依頼が来るようになりました。2023年10月にはテレビ番組『カンブリア宮殿』に出演したのですが、その反響で店舗には行列ができました。フルオーダースーツの店に行列ができるなんて、聞いたことがありません。こうなると従業員もやはり自社を好きになり、 誇りを持つようになりますよね。このように、広報活動は従業員満足度や社員のロイヤリティを上げるためにも重要だと思っています。
他にも、ホームページに著名人の写真を掲載しようと考えました。事務所からは肖像権の問題で難しいと言われましたがあきらめられず、1人の著名人に4回、5回と立て続けにお願いに行くこともありました。そうすると「まったくしつこいね、あなたの本気度はわかったよ」とOKしてくれる人もいるんですよ。片岡鶴太郎さんがそうでしたね。錚々たる著名人のみなさんが自社のスーツを勧める姿を見れば、やはり従業員も誇りを持ちますよね。
私はYouTubeで『佐田社長チャンネル』というチャンネルもやっていて、1万人を超える方々にご登録いただいています。「私みたいに脚が短くても、SADAのスーツを着るとかっこよく見えませんか?」というPRをしたくて、スーツを着てちょっと無茶なことをする動画を配信しています。
一番ウケたのが、オーダースーツを着てスキージャンプをする企画。私は転倒しましたが、スーツはビクともしませんでした。この企画をたくさんのメディアが取材してくださり、とくに産経新聞さんにはカラーで大きく取り上げていただきました。こうした記事も、従業員が会社に誇りを持ち、会社を好きになるきっかけになると思います。
負債25億からスタートした経営者人生
オーダースーツSADAの原点は、祖父が関東大震災直後に創業した会社です。祖父は「焼け出されて勤め場所まで失えば、従業員は立ち上がれません。企業としてそんなことをしてはいけないと思います」と訴える当時の総務部のメンバーに心打たれ、自分のお金で店を再建することを本家に持ちかけました。その結果のれん分けという形で独立を譲られ、翌年1923年に焼け野原で営業を開始しました。当初は洋装に強い問屋として、テイラーさん相手の商売をしていました。
それを引き継いだ父は「これからの時代はメーカーだ」といって、会社を問屋からメーカーに変えてしまいました。工場を作るのにお金も必要だったので、法人化して出資を募りました。これがオーダースーツSADAのはじまりです。その後工場は国内に3つ、中国に1つまで増えました。とはいえ、父の代まで会社の事業は製造卸業のみでした。それが今では9割が製造小売業になり、製造卸業は1割を残すのみになりました。
父の代でオーダースーツSADAはメーカー業として伸びましたが、それは業績好調な百貨店の下請けだったからです。実際に、売上の半分を百貨店に依存していました。ところが2000年になって、取引先の百貨店が経営破綻します。売上の半分を失ったオーダースーツSADAも、連鎖倒産すると思われていました。
当時大学を出て大手化学企業に入社したばかりだった私でさえ「自分にはもう戻るところがない。ここで出世して一生やっていこう」などと考えたものです。ところが父は厳しいなかでも会社を存続させ、私は4代目として後を継ぐために戻ることになりました。
当時は売上がまだ22億円あったものの、有利子負債が25億円もありました。金利だけで1億円以上支払っている計算です。しかし父は私に会社の経営状況や今後の経営方針を詳しく教えてはくれませんでした。人生をかけて戻ってきた私をはぐらかすような父の態度に腹を立て、一時は胸ぐらを掴み合う親子喧嘩に発展しました。
でもそれは不毛だと、さすがにお互い気づいていました。もう一度父に説明を求めると、中国工場への移転拡大したというのです。そのためのさらなる借入の人質として、私が必要だったんですね。卸の7割が中国工場になれば、ものすごい利益が出る。俺はこれをやりたいんだ、と父は言うわけです。
しかし当時においてメイドインチャイナのフルオーダースーツは、卸先のテイラーさんたちに受け入れられませんでした。なんとかこれを扱ってもらう方法として考えたのが、 バブル時代の好景気を経験した営業担当者による中国製品の提案営業でした。
社員たちは猛反対で、5人いた営業部長のうち3人から辞表を受け取りました。しかし父は「そんなものは笑って受け取れ」と言いました。私は父の言葉に勇気を得て若手を部長職に引き上げ、 中国製品の提案営業を進めました。幸いお客さまからはあたたかいお声をいただき、 7割弱が中国製品を受け入れてくださって、利益も出るようになりました。
しかし膨れ上がった借金によって、利益は全部金利で消えてしまいました。従業員の賞与も十分に払えず、設備投資もできない状態です。このままではいよいよ会社の存続が危ういというときに、メインバンクの支店長さんから債権放棄という方法をご提案いただきました。私は黒字を出した実績をもって社長に就任し、この提案に乗ることにしました。さまざまな方々のご協力を得て、25億円あった借金のうち20億を放棄してもらいました。損益計算書は1億7,000万円出せるまで黒字化していましたから、貸借対照表が切れるようになって、本当にいい会社になったんですよ。
応援されるのは、世のため人のために命をかける人
しかしここでも落とし穴があり、生き残るために父の代で繰り返していた粉飾決算が明るみに出てしまいました。これにはメインバンクも激怒して、「佐田さんは親子揃って腹を切る覚悟がおありですか?」と聞かれました。親子揃って自己破産する覚悟があるなら、その痛みをこちらも共有する準備があるというような言い方でした。
父は常日頃から「自分はどうなってもいいから従業員の雇用だけは守る」と言っていましたから、腹は決まっていたんだと思います。私もそれを実践することだけが、4代目としての使命だと感じました。かくして佐田家が持っている資産をすべて差し出すのと引き換えに、従業員の雇用は守られました。ご協力くださった金融機関の皆さまのご厚意と、父の潔さが生んだ結果でした。
幸い大手商社系列の再生ファンドがスポンサーになってくださり、オーナーさんも見つかって、会社は継続しました。しかし2009年になってリーマンショックが起き、再生ファンドの系列会社が倒産してしまいます。その後も東日本大震災で宮城県にある工場が被災し、卸先だった東北のテーラーが大量廃業に追い込まれました。 会社は売上の3分の1以上を失い、赤字に転落します。オーナーさんもいなくなってしまいました。
そんなとき、金融機関から「戻ってこられませんか?」と連絡をいただいたんです。社内でヒアリングしたところ、全員から私の名前があがったのだと言います。これは私ではなく父や祖父に対する愛着だと感じ、代表取締役に就任する運びとなりました。そこから事業を立て直すとともに広報やメディア戦略に力を入れて信頼感や知名度を高め、今に至ります。
危機を経ての気づきをミッション・ビジョン・バリューにまとめて現場に落とし込むのが、社長の仕事だと思いました。まずミッションは、「オーダースーツの着心地と楽しさで、日本のビジネスシーンを明るくする!」「日本のビジネスパーソンの『セルフイメージ』を向上させる」「日本人の『おもてなしの精神』の象徴であった、日本のスーツ文化を再構築する」の3つです。ビジネススーツというドレスコードの意味を、日本のビジネスパーソンに広めたいと思いました。
最近は「スーツを着ないほうがかっこいい」という風潮もありますが、戦後の若者たちは3年の分割払いをしてまでフルハンドメイドのスーツを買いました。それは、おもてなしの心をあらわすためです。
ビジネススーツというのは、世界共通のおもてなしアイテムなんです。G7やG20といった首脳会議で各国の首脳がビジネススーツを着ているのも、お会いする相手に感謝と敬意を伝えるための最上級のドレスコードだからです。日本人がその心を思い出し、表現できるようになってもらうことが、オーダースーツSADAの社会貢献だと考えています。
そのミッションを実現するために必要なのが、知名度や信用度です。広報を通じて、スーツを着る人で知らない人のいない会社になることが、当社のビジョンです。では、この会社がどのような社員の集団になれば、ミッションを成し遂げられるか。そう考えたときにまず頭に浮かんだのが、おもてなしの心です。
これまでの人生、もうダメだと思うと必ず助けてくれる人があらわれました。それは私たちが自分たちのためではなく誰かのために、もっと言えば世のため人のために命をかけようとしてきたからだと思うんです。京セラ創業者の稲盛和夫さんがおっしゃった、利他の心にも通じるところがあると思います。
また、自責の思考も大切です。過去と他人は変えられないけれど、自分と未来は変えられます。まずは矢印を自分に向けないと、あらゆる改革が成功しないと思います。
この世の事象を自分がコントロールできることと、そうでないことに分けて考えましょう。自分がコントロールできないことに対していくら努力しても、成果は上がりません。限られたリソースを自分がコントロールできることにだけに集中させることです。成果が上がればそれをもとに信用が築かれて、さらに選択肢が増えてくるはずです。
そのうえで、チャレンジスピリットを持つことが大切です。強いもの、賢いものではなく、環境の変化に合わせて変わりつづけてきたものが生き残る。これは歴史が証明している事実です。恐れを捨てて、未知のことにチャレンジしましょう。失敗しても、ポジティブシンキングでいれば何度でも立ち上がれます。
オーダースーツSADAは現在46店舗になり、売上も関東大震災時の17億円から今期は42億円で着地しています。今後もさらに成長を続け、フルオーダースーツの魅力をたくさんのお客さまにご理解いただけるようになりたいです。おもてなしの心としての日本人のスーツ姿を、世界で称賛されるものにしていきましょう。