戦略と仕組みで乱世を勝ち抜く。徳川宗家に学ぶ、人材配置と組織づくり【Executive Premier Talksレポート】
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戦国の乱世に終止符を打ち、260年以上も続いた江戸幕府を開いた徳川家康公。家康公はすぐれた将軍であるとともに、組織づくりの名手でもありました。SmartHRは経営層の皆さまを対象とした少人数制の講演・交流会を定期的に開催しています。今回は徳川宗家の現当主をお迎えし、家康公が実践した「勝てる組織のつくり方」についてうかがいました。
- 登壇者德川 家広(とくがわ いえひろ)
徳川宗家 第19代当主
1965年東京に生まれる。慶応義塾大学卒業後、米ミシガン大学で経済学修士号を取得、国連食糧農業機関FAOローマ本部とハノイ支部で勤務の後、米コロンビア大学で政治学修士号を取得。2000年末に帰国してからはフリーの翻訳家、政治経済評論家として活動。著書に『自分を守る経済学』(ちくま新書)、『マルクスを読み直す』(筑摩選書)。訳書に『豊かさの誕生』(日本経済新聞出版社)『大いなる探求』(上下巻、新潮社)『アメリカが中国を選ぶ日』(勁草書房)『最強国の条件』『ソロスは警告する』(講談社)など多数。2021年6月より公益財団法人德川記念財団理事長。2023年1月より徳川宗家19代当主。
- モデレーター倉橋 隆文
株式会社SmartHR 取締役COO(最高執行責任者)
2008年、外資系コンサルティングファームマッキンゼー&カンパニーに入社し、大手クライアントの経営課題解決に従事。その後、ハーバード・ビジネススクールにてMBAを取得。2012年より楽天株式会社にて社長室や海外子会社社長を務め、事業成長を推進。2017年7月、SmartHRに参画し2018年1月、現職に就任。
寛容な人柄と状況判断力、家康公がもっていた「経営者の資質」
倉橋
徳川家の歴史からは、個人の欲よりも組織や世の中の利益を優先してきたように感じます。絶大な権力を握りながらもこうした境地に思い至った徳川家康公とは、どのようなリーダーだったのでしょうか?
德川さん
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」のように、家康をめぐるエピソードでは何かと忍耐強さが強調されがちです。しかし、その本質は「流れに逆らわない」という考え方にあります。状況が悪いときは無理をせず、潔く引く。状況がよいときには、ここぞとばかりに勝負に出る。こうした的確な状況判断ができたからこそ、家康公は並み居る戦国武将たちを破って天下を取れたのではないでしょうか。
戦国の世は諸行無常です。秀吉は忍者のようなスキルを使って権力を得たものの、一代で終わりました。織田家も家臣の裏切りによって終わり、徳川家と直接対峙した北条家、今川家、武田家もあっさりと滅んでいきました。手に入れた権力にしがみつこうと欲深く振る舞うと、滅ぼされてしまう。織田家や豊臣家が天下を取り、その後没落していくさまを目の当たりにした家康公は、そう痛感したのかもしれません。
倉橋
戦国武将には「気性の荒い変わり者」というイメージがありますが、家康公は「現実的で状況判断に優れた人」だったのですね。経営者にも通じるものを感じます。メディアで注目される経営者は一見変わったように見える方もいますが、多くは非常に優れた判断能力を兼ね備えていますからね。
德川さん
そうですね。家康公はさまざまなバックグラウンド・気質の家臣を抱えていたことから、懐の深い性格だとも言われます。家臣の意見や要望には積極的に耳を傾け、その人の気質や能力を活かす適材適所の配置を行いました。
多様な家臣たちから慕われたのは、家康公が彼らと「将軍と大名」のみならず「人対人」の関係をも築いていたからだと思います。仕事ぶりをフェアに評価する一方で、恩義や信頼といった数値にあらわれない貢献にも見返りを用意しました。多様な人材を受け入れる寛容性と、小さな貢献にも感謝を忘れない義理堅さ。この2つの要素が家康公のリーダーシップを強固にしていきました。
倉橋
交渉術に長けた戦略家の酒井忠次、並外れた武芸の腕を発揮した本多忠勝や榊原康政。水と油のように気質の異なる家臣が共存できたのは、家康公が多様な才能を認めていたからなのですね。多様な人材を受け入れて適切に評価する力は、企業の経営にも必要だと思います。
さらに定量的な指標だけでなく、数値にあらわれにくい定性的な指標も意識していた家康公は、人事担当者の資質ももちあわせているように感じました。
家臣の力を引き出す「家康式人事」のすごさ
倉橋
家康は徳川家が天下を取った理由について、「家臣団のおかげ」と語ったと言われています。それほどの団結力はどこから来ているのでしょうか。
德川さん
徳川に改名する前の松平家だったころ、家康公のおじいさんにあたる松平清康は三河国(現在の愛知県東部)を平定する一歩手前までいきました。しかし1535(天文4)年、尾張国(現在の愛知県西部)を治める織田家の領土への侵攻中に、内紛によって命を奪われてしまいます。後継者となった家康公の父・松平広忠も、家臣の反逆によって崩御しました。
徳川家は2度にわたって主君を失うという憂き目に遭ってきたわけです。家康公の頃に残っていた家臣団は、こうしたショッキングな出来事にもめげず、徳川家を見捨てずに守り続けてきた人たちなのですね。逆境にある松平家でも大事にする、組織を信じる気持ちが非常に強い人たちの集団だから、団結力が強かったというのはあると思います。
倉橋
危機的な状況を踏みとどまったメンバーが強いというのは、企業と同じですね。世代を超えて家を守ってきた家臣の強い思いが団結力につながったのもうなずけます。
德川さん
家康公の家臣団は基本的に親族と、古くから苦楽をともにしてきた生え抜きの新卒型家臣のみで構成されていました。血のつながりや長い付き合いのある人どうしなら、小さなケンカがあっても最終的にはわかり合える。万が一仲がこじれたとしても、そこまでひどいことはしない。そういう見立てがあったのでしょう。
倉橋
信頼関係があるからこそ、家臣団は忠誠を誓って一生懸命仕えていたということですね。忠誠心が強いからこそ、将軍が志半ばで倒れたときはたいへん悔しかったのではないでしょうか。その悔しさをバネにして、家臣たちは不遇の時代を乗り切ったのですね。
德川さん
家臣団の並外れた団結力の背景には、家康公の信望の厚さもあったと思います。家康公は家臣たちの意見によく耳を傾け、期待に応える働きぶりを見せた家臣にはしっかりと報いていました。
仮に家臣本人が一生懸命働いたが、戦死したり不運にも病気などで亡くなってしまった場合は、その子どもの代で報いるような仕組みになっていました。
倉橋
それが安心感につながり、忠誠を誓って一生懸命働くことにつながったのですね。現代でいう企業年金のような存在だったのかもしれません。
德川さん
少し大盤振る舞いしすぎていたかもしれませんが(笑)
倉橋
それぞれの貢献に見合った報酬を用意することで、すべての家臣が納得できるように工夫していたのですね。家康公は古くからの人間関係を大事にしていたとのことですが、やはり長く仕えた新卒型家臣のほうが出世しやすい傾向にあったのでしょうか?
德川さん
必ずしもそうとはいえません。家康公はもとは敵軍にいたり、一度離反したものの再び徳川家に戻ってきた中途採用型の家臣も、生え抜きの新卒型家臣と分け隔てなく登用していました。
また、藤堂高虎は実は家臣ではなく、外部のコンサルタントのような立場で徳川家に関わっていました。家康公も家臣団に足りない能力を外部の力を借りて補うことで、組織をさらに強くしていたのです。
戦略的な「仕組み化」で長く続いた江戸幕府
倉橋
徳川家の平和な治世は、各人材の力を最大限に引き出す人材配置・報酬制度の賜物だということがわかりました。このような徳川家の強さが時代を超えて受け継がれる……、いわゆるサクセッションがうまくいったのはなぜですか?
德川さん
やはり一番重要なのは、後の歴代徳川将軍が家康公、つまり創業者の理念をまじめに受け継いでいたということです。
これは後継者を育てる若君の側近たちもまた、創業理念をちゃんと受け継いでいたからこそ可能だった。それどころか、家臣の妻たちにまで理念は浸透していました。
倉橋
なるほど。とはいえ、適性はさまざまだったと思いますが、うまく受け継ぐ秘訣などはあったのでしょうか?
德川さん
実は歴代の将軍の能力はよくわかっておらず、それでもうまくいっていたのは、それぐらい幕府の仕組みがよくできていたからといえます。老中が多くの判断を下し、たとえば政策に反対の人が出ても、将軍自体が恨まれないようにしていました。情報戦略ですね。
倉橋
世継ぎにおいては、理念の継承と情報戦略が大事なのですね。
德川さん
人は、上から言われると反発して言うことを聞かないですが、小耳に挟んだことは素直に受け止めたりするのですよね。そういう人の性質をうまく利用していたと思いますね。
また、「このセクションの部長を次は誰にするか?」というときは、「入札」といういわゆる投票制度で決めていました。新人も含め、部署全員で決めるというスタイルです。「俺が俺が」と自己主張する人ではなく、「この人なら任せられる」という人材を育成することが組織づくりのなかで大切なことでした。「個」よりも「和」をまず重んじる。個として優秀でも、性格の悪い人は結果を出せないのですよね。
倉橋
なるほど。徳川家の歴史から、人材配置やサクセッションを含めた組織づくりのヒントが得られたように思います。本日は貴重なお話、ありがとうございました。
講演後に懇親会を行いました
講演後は德川さん、倉橋を交え、参加者の皆さまとの懇親会を開催いたしました。德川さんへの質問の列は絶えず、参加者さま同士のお話もたいへん盛り上がりました。